『弦月の烙印6』


明くる日の朝、信玄に呼び出された幸村は、広い居間の中ほどで正座し
向き合った信玄と碌に目も合わせず、伏し目がちに視線を泳がせ、黙していた。
常の生き生きとした活発さや、迸るような鋭気はまるでない。
幸村をよく知る人間が見れば、間違いなく別人だと驚愕するだろう。
信玄は徐に口を開こうとしたが、ちょうどその時、居間に音もなく現れた背の高い姿に目を留め
そちらへと声を掛けた。

「どうじゃ、佐助」
「はい、やっぱり大将が云ってた通り、独眼竜が動きを見せましたよ」

偵察から戻ってきた佐助の報告によれば、今までにない大勢の騎馬隊を引き連れ、既に奥州を発ったと云う。
それも大層な勢いで、このままだと一両日中にも、否、もっと早く甲斐領に侵入してくるだろうと
いつもの飄々とした余裕ではなく、若干の焦りを見せる佐助は、苛々と頭を掻き毟った。
よもやこれ程に性急な動きを見せるとは思っておらず、信玄も腕を組んで思案を巡らせる。
向こうが戦を仕掛ける気であるなら、それなりの準備をして迎え撃たねばなるまい。(例え間に合わぬとしても、だ)
交渉の席を設けることが出来れば良いものの、その提案を素直に聞くような男ではなかろうし
もしも話し合いに応じたとて、一方的に幸村を差し出せと云うに決まっている。
何しろ一月もの間、米沢城に捕らえてあったその存在を隠匿し続けたのだ。
佐助が仮にも見つける事が出来ていなければ、今頃も竜の手元で、一生を飼い殺しにされていたに違いない。
大国の若き主の酔狂か、はたまた云うに事欠いて恋情恋着の類いかと、推量は仕兼ねるが
手塩に掛け大切に育てて来た若将が事もあろうに
とんだ輩に目を付けられたものだと、信玄の眉間の皺は増えるばかりだ。
一方的に武力を以って欲する物を得んとする、鶏鳴狗盗な愚かさほど恐ろしいものはない。
まずは鱗を逆立て牙をむく大蛇を大人しくさせ、諭せるものが幾許あるか定かではないが、諭してみよう。
思えば幸村と然して変わらぬ歳の割りに、中々大胆不敵な智将だと音に聞くのは確かだ。
何にせよ、来る戦に勝たねば始まらぬ。

「…佐助」
「へいへい、了解しましたよっと」

短く名を呼ばれた佐助は、云われずとも再度の状況確認だと察し、また音もなく姿を消した。
一方、未だ座り込んだ儘の幸村はと云えば
独眼竜、即ち伊達政宗の名を聞いただけで、ブルリと震え上がっていた。
まさか武者震いなどではない。
誰が見ても判る、恐怖による戦慄である。

「……幸村よ、此度の戦、お主は来るな。此処で身を潜めておれ」
「っ…しかし!」
「二度は云わぬぞ」
「…ッッ…!」

否を許さぬ硬い声でピシャリと云い切られては、幸村に反論する余地はない。
黙って頭を下げ、足早に居間を辞した。

「……なんと、己の不甲斐無いことか…っ…」

自室に下がって襖を閉めるなり、幸村は自己嫌悪も露わに吐き捨てた。
信玄にああ云わせてしまったのは、偏に己が抱えた怯懦(きょうだ)の所為であり
諭されずとも、今の状態では戦場に立った処で、とても使い物になりはしないと判っている。
判ってはいても、武田一番槍を自負するにあたり
敵に恐れをなし隠れて震えているしかないというのは、あまりにも情けない話だった。
されど、躯の根底にまで植え付けられた伊達への恐怖心は
今や枯れるどころか育ち膨れ上がってどうしようもなく
ガタガタと勝手に怯え震える躯を満足に落ち着ける事もできない。

「…う、…く…ッ…」

襖に寄り掛かりながらズルズルとその場に蹲り、膝を抱えた。

 


半日が過ぎ、夜も更けた頃
立てた膝に頭を埋めていた幸村は、不意に座敷に現れた気配に感づき、パッと顔を上げる。
果たして、居たのは佐助であるが、何か様子がおかしい。

「佐助、戻ったのか…!戦況は、」
「…ッ旦那!此処からすぐに逃げるよ!すぐ其処まで、追っ手が来てる…!」
「!!、何を、云っておるのだ、佐助、、お館様は…」
「そのお館様に旦那を逃がすよう云われたんだ…!いいから、早く!!」
「っ、」

珍しくも慌てた様子を見せる佐助に、半ば強引に腕を引かれ、幸村は動揺しながらも屋敷の外へ走り出る。
すると、云う通り、すぐ向こうでは月光に薄く砂塵が舞い
武器と武器が搗ち合う甲高い音や、数多の雄叫び、馬の蹄の音が微かに聞こえた。
思わず其方に足を向けようとすると、引き戻すようにグイと右手を引っ張られ
幸村は後ろ髪を引かれつつ、佐助の後に続いて山の獣道へと分け入る。
云うまでもない、馬が走り易い幅広の道を逃げるは愚の骨頂。
灯かり無しに、小走りで進むと、頬や足首に見えぬ木枝や山草の棘がバシと当たり傷を負ったが
いちいち構う処ではない。

「っ!」

とその時、佐助が急に足を止め、背後を振り返った。
視線は幸村のずっと後ろへと注がれている。
常人には判らないが、忍の彼はすぐ傍まで近付く不穏な気配を察知したのかも知れない。
その証拠に、

「旦那、先行ってて…必ず、後で追いつくから…!」
「ッ佐助!」

身を翻し、高く跳び去ってしまった姿はもう、闇に呑まれて見えなくなった。
幸村は一時逡巡したが、意を決したように前へと進み始める。
此処で引き返すという事は、佐助の忠誠を、延いては信玄の云い付けに背くことだ。
グッと歯を食い縛り、一寸先も見えぬ夜の闇の中を、ひた走る。

「…っは、…はッ…!」

どれ程、走り続けただろう、上擦った呼気が一息する度に
咽喉と肺の臓が刺すような痛みを訴えても尚、足を休めぬ幸村の耳に
背後より草木を掻き分ける音と、具足同士がガチャガチャと触れ合う硬質な音が聞こえた。
ザッと血の気を引かせ足を止め、耳を欹てると、間違いなく物音は此方へ近付いて来る。

「ッ!!」

咄嗟に鬱蒼と生い茂る草叢の中へと素早く身を伏せ
狩人から逃れんとする獲物のように、息と気配を殺す。

「居たか」
「いえ、何ぶん、夜目が利きませぬ故」
「Hum、オレもだ。夜襲つって提灯の一つも持って来なかったのは痛ェところだな」

覚えのある低い声が、すぐ其処で聞こえ、幸村は竦み上がった。
思わず悲鳴を零しそうになった口に、掌を押し当て冷や汗を流す。
もし、衣擦れの音一つ立てようものなら、たちまち見付かってしまうだろう。
それ程に、近いのだ。
かつて己の心臓の鼓動を、こんなにも五月蝿く思ったことはない。
頼むから、気付かず行ってくれと、普段手を合わせもしない菩薩に、必死になって祈った。

「…うまく逃げられたな」
「いかがします」
「Ah〜、そう焦るな…一度皆を集めろ。それからだ」

淡々と指示する男の声は、獲物を見失った落胆というより
先に延びた愉しみを前に自制する含みを孕んで、幸村の耳へ不気味に届いた。
ゾクリと、寒気が背筋を這い登る。

――捕まった時、何かが終わってしまう。

それが何であるか、一言では云い表せぬが、とにかく
とんでもない怖気が全身を襲い、全く生きた心地がしない。
ギュウと目を瞑って呼吸を止め、ひたすら身を小さくする幸村の存在に
辛くも気付くこと無く、二人分の音と気配は、此処で諦めたのか、次第に遠ざかって行った。
辺りに静寂が戻る。
そこで漸く幸村は、ハァ!と蘇生したが如く、大きく息を繰り返し
胸中は「助かった」という安堵ではなく、「もっと遠くへ逃げなければ」という焦燥のみがあって
もう何が何でも早くこの場から離れたいと、心胆を握り締めて責っつき。

「…ッく…!」

不様に震え哂う両膝を叱咤して立ち上がった幸村は、再び走り出した。

知らぬ間に、長かった夜は明け
山裾から眩しい朝日が昇り始めたのが、視界の端に見える。

一度速度を落とし、山の景色を見渡せば、右手の方に見覚えのある老木があり
「近い…」と頭の中に叩き込んである方角と道筋を思い出した。
有事の際の隠れ処である、山家(やまが)の場所を。

「…斯様な事で、使う破目になろうとは…っ…」

元々、この辺り一帯の土地は、住み着いていた山賤(やまがつ)から信玄が買い取ったもので
その時彼らが使っていた住処を取り壊さず、そのまま山戦や緊急の避難時などに利用できるよう残してあるのだ。
武器も銭も食料も、それなりの物が備蓄してある。
深い山懐にある為、敵の目にもそう易々とは見付かるまい。

一刻ほど歩き通し、やっとの思いで辿り着いた幸村は、中へ入るなり、緊張が解けてその場に崩れ落ちる。
そうしてそのまま、眠るように意識を失った。

 

――――――――――――――――

 

二日が経った。
蓄えられていた食糧はまだまだある、水もすぐ近くに湧き水があり苦労はしない。
しかし、待てど暮らせど、佐助が来ないのだ。
この場所を知らぬ訳でもないのに、一体どうしたというのか。
もしや、身に何ぞあったのかと、不安ばかり募るのだが
まさか外へ捜しに出ようなどと、短慮としか云えぬ愚行は出来まい。

「…佐助、…っ…早く来い…、、」

それから更に三日が経ち四日が経ち、到頭、佐助はやって来なかった。
これだけ待っても姿を見せぬという事は、つまり、そういう事だ。
悟り、丸一日、泣き通した幸村は、槍を引っ掴むと、山家を飛び出した。
たとえ行く末に伊達の手に落ちる事になろうとも
信玄の安否を確認せずには、佐助とて死んでも死に切れまい。
この身を生かせと云う主命を帯びていたようだが、己一人生き延びて、一体何の意味があるのかと
幸村は険しい山坂を脱兎の如く駆け下りた。

 

「……そんな、莫迦な…」

最初に目にしたのは、見るも無残に焼き落とされた屋敷であった。
かつて門扉があった処には、まるで敷居のように武田兵達の生首が並べられ
よくも斯様な惨い真似が出来るものだと拳を握り、立ち尽くす。
この状況を見る限り、此度の急襲により甲斐は敗走を喫したのだ。
されど、並んだ首の中に、幸いにも信玄の首は無く
それが唯一、幸村の砕けそうな心を辛うじて支えた。

「……お館様…、この幸村が、必ずや見つけ出しますぞ…っ」

きっと、何処かに身を隠しているに違いない。嗚呼、そうに決まっている。
幸村は独りごち、胸の内の暗い処より滲み出る厭な雑念を振り切るように、その場から走り出した。


 


【7へ続く】


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あとがき

頑張れ幸、正念場だ…!

2010/01/31  。いた。